2021-02-17
ジャパニーズ【0068夜】ペリーの黒船と日本初のウイスキー~その③
当時、幕府の対応は「長崎に回航すべし」という一点張り。唯一外国の窓口となっていたのが長崎で、江戸の幕臣たちは責任を取りたくなかったのだ。業を煮やしたペリーは、浦賀から横浜沖まで船を動かし、水深を測るなどして武力行使をちらつかせたが、ペリー側にも日本には言えない事情があった。それは長びく遠征で、補給が間に合ってなかったのと、7月・8月の日本近海が台風などで荒れることを知らなかったのだ。交渉が長引けば不利になると悟ったペリーは、久里浜に上陸し、そこで大統領の親書を日本側に渡し、翌年もう一度来ると言い放って、上海に帰っていった。
一度、上海にもどったペリーは補給を整え、合流が遅れていたポーハタン号の到着を待って、再び1854年1月に上海を出発、江戸湾を目指した。今度は計10隻の黒船による遠征だったが、実際間に合ったのはそのうち7隻で、2隻は遅れて江戸湾に合流。1隻は出航不能となり、この1854年の遠征には参加できなかった。
たった4隻の黒船でも、日本中ひっくり返ったのだから、その倍の9隻の船に江戸幕府は恐怖に陥った。しかも、今回は浦賀ではなく、江戸城とは目と鼻の先の横浜までペリー一行の船は侵入した。それも、陸地側の砲門はすべて開けられ、いつでも大砲が打てる状態だったという。
結局、この年(1854年)の3月31日に、ペリーとの間で結ばれたのが、日米和親条約で、これで250年近く続いた江戸幕府の鎖国政策に終止符が打たれたのだ。2度にわたる外交交渉の席でペリー側が日本の役人に振舞ったのが、スコッチとアメリカンのウイスキーだった。
ペリーの公式随行員の記録には、「日本の役人はことのほかジョン・バーリコーンがお好き…」と書かれているという。ジョン・バーリコーンとは大麦(バーレイ)を原料としたウイスキーのことで、顔を真っ赤にして、チドリ足で船からおりていったと、その様子が面白おかしく書かれている。(0069につづく)
公式記録『ペリー日本遠征記』の中にあるエッジング。(上)ポーハタン号の船上パーティーのようす。(下)アフリカ沖を航行するミシシッピ号。 一覧ページに戻る