2021-02-16
ジャパニーズ【0067夜】ペリーの黒船と日本初のウイスキー~その②
ペリーが日本遠征にあたってこだわったのが特命全権大使という肩書きだった。単に海軍提督ではなく、その肩書きが必要だったのは、いざとなれば大統領の決裁を待つまでもなく、ペリーの一存で江戸幕府と開戦もできるということだった。圧倒的な軍事力の誇示と、いざとなれば江戸に集中砲火を浴びせることもできるという、断固たる意志だった。
ペリーはミシシッピ号に乗ってノーフォーク軍港を出航したが、すでに香港、上海にはアメリカが誇る東インド艦隊の船が集結していた。サスケハナやサラトガ、プリマスといった船たちで、1854年には、それに当時世界最大、最新鋭といわれたポーハタン号も加わっている。ペリーのミシシッピ号は大西洋を横断してセントヘレナ島に達し、アフリカ西海岸を南下して喜望峰を回るという東回りの航路をとっていた。当時まだスエズ運河もパナマ運河も開通しておらず、補給のことを考えれば南アメリカ最南端のマゼラン海峡を回るより、東回りのほうが、理にかなっていたのだろう。
ペリーは香港でサスケハナ以下の船と合流し、提督が乗る旗艦をミシシッピからサスケハナに変え、1853年7月、日本を目指した。その前に5月から6月にかけ琉球を訪れているが、それはまた別の機会に(この辺のことはNHKが10年くらい前に放送したテンペストというドラマが詳しい)。この時はポーハタン以下が間に合わなかったので、前述のサスケハナ、ミシシッピ、サラトガ、プリマスの4隻での来航だったが、ペリー一行は観音崎から浦賀沖まで航行し、そのまま江戸湾の奥まで侵入の姿勢を見せたが、幕府の説得に応じ、浦賀沖に投錨。この時にペリー一行と外交交渉にあたったのが、浦賀奉行の配下である与力や通訳たちであった。
当時の浦賀奉行は戸田伊豆守だったが、早馬で江戸の老中・阿部正弘に指示を仰くだけで、自身は逃げてしまった。与力が奉行の代理(奉行と偽装)を務めて、なんとか、ペリー一行にお引き取りを願うことに成功している。(0068につづく)
(上)横須賀市久里浜にあるペリー上陸記念碑。右奥の建物はペリー記念館。記念碑の碑文は、初代内閣総理大臣・伊藤博文が書いたものだ。(下)ペリー記念館に展示されている黒船の模型。 一覧ページに戻る