2022-09-05
スコッチ【0282夜】チャールズ・エドワード・スチュワート~王として生まれた君よ①
歴史に「もし」という言い方が許されるなら、1745年12月7日、ロンドン北方130マイル(約200キロメートル)のダービーで開かれた、ある軍事会議がそれに当たるかもしれない。
会議の主人公は、チャールズ・エドワード・スチュワート。スコットランド王、イングランド王として君臨したスチュワート王家の末裔で、父ジェームズ・スチュワートと、ポーランド王女クレメンティ―ナ・ソヴィエスキとの間に生まれた、美貌の王子である。当時、弱冠25歳だった王子はその美貌ゆえに、スコットランドの民衆から「ボニー・プリンス・チャーリー」、可愛らしいチャーリー王子と呼ばれて、絶大なる人気を誇っていた。
史上名高い、ジャコバイトの反乱の2回目が起こったのは1745年のこと。ジャコバイトとはスチュワート王家を支持するスコットランドの分離・独立派のことで、ジェームズのラテン語読みのヤコブ(ジャコブ)から名付けられたものだ。
父王の復権(ジェームズ王は当時イギリスから追われフランスに亡命していた)を求めて、チャールズがスコットランド西岸、モイダートに上陸したのが1745年の7月(実際はエリスケイ島に上陸している)。たった7人の仲間を引き連れただけの、ごく小規模な企てであったが、イングランドの圧政に日頃から不満を募らせていたハイランドの人たちに賛同する者が多く、上陸から1ヵ月後の8月19日にグレンフィナンで行われた決起集会には、2,000人を超えるハイランド兵が馳せ参じたという。
若き王子の無鉄砲とも思われる反乱の企みは、しかし燎原の火のように瞬く間にスコットランド中に吹き荒れ、政府軍のこれといった抵抗にあうこともなく、9月4日にはパース、そして9月17日には市民の大歓声に迎えられてエジンバラ入場を果たしている。驚くべきことに王子はエジンバラのホーリルード宮殿で紳士・淑女を招いて大夜会を開いたりして、まるでスコットランド王のように振舞ったという。(つづく)
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