2022-08-30
スコッチ【0281夜】トーマス・ブレイク・グラバー〜スコティッシュ・サムライの生涯②
ヴィクトリア朝のスコットランドの若者の誰もが夢見るように、トーマスも極東アジアに強い憧れをもっていた。インドは大英帝国の植民地であり、香港、上海にはスコットランド系商社のジャーディン・マセソン商会などが、すでに進出していた。中国茶の輸入はまさに最盛期で、アバディーンの港には極東アジアの貿易に従事する、いわゆる冒険商人たちが数多く出入りしていた。
トーマスにとって、極東に行きたいという願いは当然だったのだろう。18歳でパスポートを取得すると故郷アバディーンを離れ、中国を目指した。トーマスが上海に上陸したのは1857年、19歳の時。上海では同じスコットランド人ということで、ジャーディン・マセソン商会に入社。そこで貿易の仕事に従事した。トーマスに転機が訪れたのはその2年後の1859年のこと。この時日米修好通商条約の締結(1858年)で、長崎・函館などが開港した。その2ヵ月後の9月に、トーマスは開港したばかりの長崎にジャーディン・マセソン商会の代理人としてやって来た。トーマス21歳、日本は幕末の大混乱期で、明治維新の成立まであと9年と迫っていた。
その後のグラバーの活躍については、あらためて記す必要もないだろう。長崎でグラバー商会を興し、長州、薩摩、土佐といった西南雄藩と親交を結び、明治維新の立役者となったことは繰り返しドラマにもなり、歴史の教科書にも載っている。薩長が倒幕戦争で使用した武器・弾薬、艦船などの7割近くをグラバーが調達したという。ちょうどアメリカの南北戦争が終結し(1865年)、不用となった小銃、大砲、艦船などが極東マーケットに大量に流れていたというのも、面白いエピソードである。
トーマスは長崎にやってきた8年後の1867年、日本女性ツルと結婚し、長女ハナ、長男アルバートの一男一女の父となった。アルバートの日本人名は倉場富三郎で、明治維新後、学習院を出あとアメリカの大学に学び、日本にもどって水産業を営んでいる。それはともかく、1863年に長崎に建てたのが有名なグラバー邸で、ツルとグラバーをモデルにしたのが、プッチーニのオペラ「蝶々夫人」であることはよく知られている。
幕末から明治にかけて、グラバー邸で毎年のようにパーティーを開くのがトーマスの楽しみだったが、この時に振舞われたのが郷里の酒スコッチウイスキーだった。銘柄はわかっていないが、アバディーンには1801年創業のシーバスブラザーズ社があり、当時〈グレンディー〉というオリジナルのブレンデッドウイスキーが評判であった。現在の「シーバスリーガル」の原形だが、郷里の誉れとしてグラバーが愛したのは、もしかするとこの〈グレンディー〉だったのかもしれない。日本を愛し、近代化の立役者となったトーマスが亡くなったのは1911年。享年73歳であった。
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