2022-07-14
スコッチ【0278夜】ウィリアム・グラント/ 立志伝中の人物~その①
それはダフタウン町のモートラック蒸留所を訪れた時のことだった。オフィスの壁に、1880年代から1920年代にかけて撮られた、数枚の古い写真が飾ってあった。なにげなく見ていくうちに、そのうちの1枚の写真に目が釘づけになった。1880年代に撮られた職人たちの集合写真で、一番左側に写っている男に見覚えがあったからだ。写真の下には人物たちの名前が小さく列挙してある。目を凝らして見ると、それは紛れもなくウィリアム・グラント、その人であった。
グレンフィディック、バルヴェニーを創業したウィリアム・グラントが20年間勤務したのが、モートラック蒸留所である。グレンフィディック創業以降のグラントについてはよく知られているが、モートラック時代については、あまり知られていない。グレンフィディック蒸留所のビジターセンターには多くの写真が飾られているが、モートラック時代のものは1枚もない。売店で売っているグラントの伝記本のなかにも、その写真は入っていなかった。だから、モートラックでその写真を見た時は、ちょっとした驚きであった。…モートラック時代の写真が、あるではないか。グラント社は、あえてこの写真を使いたくなかったのかもしれない。モートラックは逆に、グラントが自分たちの蒸留所の書記係にすぎなかったことを言いたかったのだろうか。両者の微妙な関係が、なんとなく分かって興味深かった。
ウィリアム・グラントは1839年12月、ダフタウンの貧しい仕立屋の息子として生まれている。父はその時55歳、母は26歳。グラント家はもともとジャコバイトとして、1746年のカローデンの戦いに参戦した家柄である。父ウィリアムは1800年代のナポレオン戦争に従軍したが、終戦後ダフタウンにもどってきて、仕立屋として小さな店をオープンした。息子のウィリアムは、7歳になると数マイル離れた農家に手伝いにだされた。学校は農閑期だけ通ったが、非常に優秀な生徒だったという。義務教育を終えるとダフタウンの靴屋に、徒弟として働きに出ている。仕立屋より靴屋のほうが将来性があると思ったのかもしれない。しかし結婚を機に靴職人をやめ、ライムストーンの会社に事務員として転職する。将来独立を夢見ていたが、ちょっとしたトラブルがあり、その会社も辞めざるをえなかった。資金稼ぎと生活のため、転職したのがモートラック蒸留所の書紀係で、それは1866年9月3日、ウィリアム26歳の時であった。(つづく)
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