2022-07-05
スコッチ【0271夜】サー・ウォルター・スコット/スコットランド文芸復興の立役者~その②
『湖上の麗人』はイギリスばかりか、ヨーロッパの各国語に翻訳され、当時の文人、音楽家、芸術家に多くの影響を与えた。メンデルスゾーンがスコットランドを旅行し、交響曲第三番「スコットランド」や、「序曲・フィンガルの洞窟」を作曲したのも、ウォルター・スコットの影響であり、またシューベルトが「湖上の麗人」に感銘を受け、作品中のスコットの詩に曲をつけたのも有名な話である。全部で7曲を作ったが、そのうちひとつが「アヴェマリア」であることは、意外と知られていない。ヒロインのエレンが父の安否を気遣って聖母マリアに祈りを捧げる歌で、もちろんシューベルトはドイツ語訳のスコットの詩に曲を書いている。
本業のほうでは、やがてセルカーク州の副治安判事となり、さらに1822年にイギリス国王ジョージ4世(在位1820~30年)がエジンバラを訪問した際、その接待行事のプロデュース役もおおせつかっている。じつはこのことはスコッチウイスキーの歴史と大きくかかわっていて、この時のスコットの活躍がなければ、スコッチウイスキーの歴史は今とは違ったものになっていたかもしれない。
エジンバラの外港リースに降り立ったジョージ4世がキルト姿で現れたのも、密造酒であったジョージ・スミスのグレンリベットを所望したのも、ウォルター・スコットの演出だったとする説がある。ジャコバイトの乱(1745~46年)以降禁止されていたキルトの着用やバグパイプの演奏が解禁になったのも、言わばスコットのおかげであり、さらに、このことが契機となって翌1823年に酒税法が改正され、スコッチの密造酒時代にピリオドが打たれたからだ。
ジョージ4世はドイツからやってきたハノーバー朝の王様で、スコットランドとは縁もゆかりもない。その王様にキルト姿をさせ、しかも密造酒を飲みたいと言わせたのだから、民衆が喜んだことは想像に難くない。(つづく)
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