2022-07-04
スコッチ【0270夜】サー・ウォルター・スコット/スコットランド文芸復興の立役者~その①
エジンバラのプリンスィーズストリートのほぼ中央にそびえるのが、高さ61メートルを誇るスコッツモニュメントである。これはエジンバラが生んだ偉大な文豪、サー・ウォルター・スコットを顕彰するために1844年に建てられた記念碑で、完成までに4年の歳月と、じつに1万5560ポンドの巨費がかけられたという。ゴシック様式の塔の中央には愛犬キャンプを従えた大理石造りのスコットの像があり、あたかも道往くエジンバラ市民を静かに見守っているかのようである。
ウォルター・スコットは1771年8月15日、エジンバラに生まれている。父ウォルター(同姓同名)は事務弁護士で、母方の祖父はエジンバラ大学医学部教授という名門の家系であった。しかし生まれてすぐに病気に罹り、その後遺症で一生右足が不自由になってしまった。ウォルター少年は祖父の勧めもあり、空気の悪いエジンバラを離れて、幼少の頃よりボーダーズ地方の農園に暮らすようになった。イングランドと国境を接するボーダーズ地方は、古い民謡(バラッド)や伝承の宝庫で、土地の古老が語るその物語や調べが、幼いスコット少年を虜にしたという。
健康が回復してエジンバラにもどり、父の後を継ぐべく法律を学んだが(1792年に法廷弁護士の資格を取得している)、弁護士としてはあまり熱心なほうではなく、時間があれば古謡や伝承の収集に、ボーダーズ地方を巡る生活を続けていた。その熱中ぶりは、父から「お前は弁護士より行商人のほうが向いている」と、言われる始末であった。
スコットの名前が最初に知られたのは、『スコットランド・ボーダーズ地方民謡集』の出版で、若きバラッド研究家として文壇にデビューした。しかしそんな文壇を、いや世界を驚かせたのが、古いバラッドの様式を借りてスコットが創作した長編詩の発表であった。「最後の吟遊詩人の歌」や「マーミオン」などが知られるが、スコットの名声を一躍有名にしたのが、1810年に発表した「湖上の麗人」(The Lady of the Lake)であった。(つづく)
一覧ページに戻る