2022-06-13
スコッチ【0252夜】幻のサクラソウと伝説の鼻
人間の味覚は甘い、辛い、苦い、酸っぱいの4つしか感じることができないが、嗅覚は無限である。職人の世界では時に信じられない能力を発揮する者がいるが、嗅覚が並外れているといえば、ウイスキーのブレンダーはその筆頭だろう。彼らは日々、数百というウイスキー原酒をノージングし、香りを嗅いだだけでそれがどこの蒸留所の原酒であるか、いい当てることができるという。
バランタイン社の元マスターブレンダー、ロバート・ヒックス氏は4,000種の香りを嗅ぎ分けることができると豪語していたし、ホワイト&マッカイ社のマスターブレンダー、リチャード・パターソン氏は、「人間には一人ひとり固有の匂いがあり、自分はそれを識別できる」という。そんなスコッチのブレンダーの世界で“伝説の鼻”といわれたのが、バランタイン社の初代マスターブレンダーだった、ジャック・ガウディ氏である。
伝説の鼻の凄さを物語るエピソードは数々あるが、もっとも有名なのがサクラソウのエピソードだ。ある日ガウディ氏はいつものようにグラスに鼻を突っ込み、原酒のチェックをしていた。彼の顔がくもったのは、北ハイランドのプルトニー蒸留所のサンプルグラスに鼻を近づけた時だった。何かいつもと違う香りがする…やがてガウディ氏はそれが何であるかがわかった。彼は受話器をつかむと、バランタイン社の当時の社長トム・スコット氏に電話をかけた。スコット氏はガウディ氏の古くからの友人であり、誰よりも彼の能力を高く買っていたが、彼の言葉を聞いて笑いだしてしまった。「ジャック、それはありえない! サクラソウの香りがプルトニーの原酒にあるなんて」。
熱烈な園芸家でもあったスコット氏にはそのサクラソウ――ガウディ氏が口にしたのはスコットランドに自生する野生のサクラソウ、プリムラ・スコティカ(Primula Scotica)であった――が、いかに稀少種であるかがわかっていた。現在は幻の花となっていて、その姿を見ることはほとんどないという。しかし、念のために調査隊が北ハイランドのプルトニー蒸留所に派遣され、入念な調査が行われた。
結果は仕込水を引いているヘンブリックス湖から蒸留所に至る水路の途中で、ガウディ氏の指摘どおり、以前はなかった野生のサクラソウの群生が発見されたのだ。仕込水に混入したごく微量のサクラソウの香りを、伝説の鼻は見逃さなかったのである。
一覧ページに戻る