2022-06-12
スコッチ【0251夜】トリカブト事件とジギタリスの思い出
夏から秋にかけてスコットランドの山野を彩るのが、ジギタリスとヤナギランの赤紫色の花だ。どちらも背丈が1メートルから2メートルほどに育ち、赤紫のたくさんの花をつける。 ヤナギランが比較的ひらけた山野を好むのに対して、ジギタリスは森や林の中、山の斜面の薄暗い土地を好む。ジギタリスというのは不思議な名前だが、これはラテン語のdigitus(指)から付けられた学名である。イギリスではフォックスグラブ、キツネの手袋という呼び名のほうが一般的によく知られている。房状の花の形が手袋の指の部分に似ていることと、キツネの巣穴がある森や林の薄暗い地面によく生えているからだという。
このジギタリスはイギリスやヨーロッパが原産で、昔からいろいろな薬効があることで知られてきた。フォックスグラブという名前とは別に、フェアリーベル(妖精の鐘)という呼び方もあり、妖精の棲む花だと信じられてきた。医者に見はなされた老婆がジギタリスの葉でいれたお茶を飲んだら治ったとか、水腫によく効くともいわれてきた。さらにジギタリスの葉や種から抽出したエキスは心臓病の特効薬として、18世紀くらいから知られるようになった。その薬効を発見したのはエラスムス・ダーウィン(進化論のチャールズ・ダーウィンの祖父)だといわれるが、それはともかく、私にはこのジギタリスにまつわるひとつの思い出があった。
20代後半から30代前半にかけて私は新潮社の『フォーカス』という写真週刊誌の記者をしていた。その時に出遭ったのが、「トリカブト保険金殺人事件」だった。事件の詳細を書くスペースはないが、取材のごく初期の段階で(まだマスコミ報道される数ヵ月前)、被害者女性の急死の原因が心臓病のある種の薬ではないかと疑われた時期があった。薬物・毒物関係の書物を手当たりしだいに読み漁り、素人判断で下した推論が心臓病の薬、ジギタリスである。当時ジギタリスという花が存在することも知らなかったし、事件の真相はジギタリスではなく、トリカブト毒だったわけだが、私にとってはそれ以来、このジギタリスが忘れられない存在となっていた。
そのジギタリスが花の名前で、イングランドやスコットランドの田園地帯を彩るごく普通の花だと知ったのは、記者を辞めイギリスに渡った次の年(1988年)の夏のことだった。初めてその花を見た時は、妙な懐かしさを覚えたものだ。
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