2022-05-23
スコッチ【0231夜】コンサートホールに名を刻んだブレンデッドスコッチの生みの親~その②
アッシャーの「オールド・ヴァッテッド・グレンリベット・ウイスキー」については前述したが、1853年当時、グレーンウイスキーとモルトウイスキーをブレンドすることは酒税法上許されていなかった。だからブレンデッドモルトだったわけだが、1860年の酒税法改正で、グレーンウイスキーとモルトウイスキーを混ぜることが可能になったアッシャーは、すぐさまいくつかのブレンドを完成させ、その年のうちにロンドンオフィスも開設。スコットランドだけでなく、大英帝国の首都ロンドンで販売攻勢をかけていった。1880年代にはイギリスだけでなく、世界数十ヵ国に代理店を置いたというから、その勢いは凄まじい。
すぐに原酒確保の必要性を痛感したアッシャーは、エジンバラのグレンサイネス蒸留所を買収し、それをエジンバラ蒸留所と改名。さらにグレーン原酒確保のために、1887年にはノースブリティッシュ・グレーンウイスキー蒸留所をエジンバラに開設している。これはその10年前に誕生したDCL社が、グレーンウイスキーの供給をアッシャー家に対してストップしたことが、その理由だったといわれる。アッシャーはヘイグやジョニーウォーカー、ブキャナンズ、デュワーズに対抗するためにも、グレーンウイスキーの確保が急務だったのだ。
ブレンデッドスコッチという新しい酒を誕生させ、巨大な「アッシャー帝国」を築いたアンドリュー・アッシャーだったが、実生活では必ずしも幸福だったわけではなく、2度の結婚で5人の子をもうけたが、相次いで子供たちは早逝し、結局後継者となる息子には恵まれなかった。そういう意味では12人の子宝に恵まれた同名の父とは好対照だったのかもしれない。
1896年、70歳でビジネスから身を引いたアッシャーは、10万ポンドという巨費をエジンバラ市に寄付し、その金で3000人収容できるイギリス最大のコンサートホールが造られた。これは今でも英国いちのコンサートホールとなっている。完成までに16年という歳月がかかり、アッシャーはその完成を見ることはなかったが、オープニングには国王ジョージ5世と、未亡人のマリオン夫人も同席し、ホールはアッシャーの功績を称えて、アッシャーホールと名付けられた。まさに、スコッチが生んだ、立志伝中の人物なのであり、アッシャーの名前はエジンバラに永遠に刻まれたのである。
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