2022-05-13
スコッチ【0221夜】知られざるホワイトホース物語~その② ピーター・マッキーという男
スコットランド史におけるジャコバイトの反乱同様、スコッチの歴史を語る上で欠かせない人物がいる。ホワイトホースの生みの親、ピーター・マッキーだ。ピーターは、おじのローガンが所有するアイラ島のラガヴーリン蒸留所でウイスキーづくりを学んだ後、マッキー社(のちのホワイトホース社)を創業。1880年頃に、ラガヴーリンをキーモルトに使った新しいブレンデッド「ホワイトホース」を世に送り出した。実は、ピーターとホワイトホースセラーの間には深い関係がある。ピーターの生家はホワイトホースセラーの隣にあり、マッキー家は一時、ホワイトホースセラーを所有していたのだという。セラーがスコットランド人の記憶にいつまでも残っているように、自分のウイスキーも人々に長く愛されたい。そんな思いから付けられたのが、ホワイトホースだった。
ホワイトホースのオールドボトルラベルには、4頭立ての馬車の図柄とともに、駅馬車の宣伝文句が印刷されていた。『エジンバラからロンドンに向かわんとする者、あるいは道中の他の場所に行こうとする者は、エジンバラ市のホワイトホースセラーに参集すべし。毎週月曜日と金曜日に駅馬車の便があり、早朝5時に出発する。全旅程は8日間。もし神のご加護があれば…』ウイスキーのラベルに記される文章としてはいささか妙だが、それほどピーターはホワイトホースセラーに強い思い入れがあったのだろう。当時のブレンデッドウイスキーは創業者の名前をつけるのが一般的だった。「ジョニーウォーカー」や「ブキャナンズ」、さらに「デュワーズ」などがそうだが、そんななか、ピーターは敢えてホワイトホースというブランド名を選んでいる。
一方で、ピーターはかなり変わった人物としても知られていた。巨漢でエネルギッシュ、“Nothing is impossible”(不可能なことはない)が口癖で、常に動き回っている…。そこからついたあだ名が「レストレス・ピーター」(不眠不休のピーター)。ピーターの人物評については「3分の1は天才、3分の1は誇大妄想、残りの3分の1はエキセントリック」と言われる。従業員の食事にプロテインを入れて筋肉をつけさせようとした、なんて逸話も残っているし、「変人と天才は紙一重」を地で行くような人物だったのだ。ピーターは、1924年、69歳で亡くなったが、彼のチャレンジ精神と革新性はホワイトホース社の中で生き続けた。1926年、同社は他社に先駆けて、それまで主流だったコルク栓をスクリューキャップに変更。わずか半年で売り上げを2倍に増やしたという。(つづく)
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