2022-05-06
スコッチ【0214夜】ベッシーとアイラアイテス、そしてイアンさん
ベッシー・ウィリアムソンの話を聞いたのは、ラフロイグの所長のイアン・ヘンダーソン氏からだった。グラスゴー生まれのベッシーがアイラ島にやってきたのは1934年、22歳の時。当時蒸留所を所有していたイアン・ハンターの臨時雇いの秘書としてだったが、もともとグラスゴー大学を出た才媛で、人一倍好奇心の強かった彼女は、ウイスキー造りという男社会の中でめきめきと頭角を現し、やがてラフロイグの生産を任せられるようになった。1954年のハンターの死に際しては、子供のいなかったハンターが遺言でラフロイグの経営を彼女に託している。わずか3ヵ月の契約でアイラにやってきたベッシーだったが、その後、亡くなるまでの50年間をアイラで暮らし、墓も遺言で、ラフロイグを見おろす高台に作らせている。
その話を聞いたのは何度目かのラフロイグ訪問の時だったが、夕陽が見える所長室のソファに座って、グラスに入ったラフロイグを飲み干すと、「君はアイラアイテスという言葉を知っているか。アイテスとは病気のことで、ベッシーはまさにアイラアイテスに罹っていたのさ。アイラにやってくる者は、誰もがアイラを離れがたくなる…」。イアンさんがラフロイグにやって来たのは1990年代後半のこと。もともとスペイサイドの出身で、アイラに来るまで各地の蒸留所を転々としていた。ハイラムウォーカー、アライド社を経由し、当時アライドが持っていたラフロイグの所長を任され、初めてアイラにやってきた。そんなイアンさんからは所長室のソファに座りながら、いろいろな話をうかがった。当時、閉鎖中だったアードベッグを特別に案内して、見せてくれたのもイアンさんだった。
ベッシーの話を聞きながら、私はイアンさんもアイラアイテスなのではないかと思った。そう聞き返そうと思った矢先、イアンさんから言われたのが、「君はアイラに来てどれくらいになる。今回で何度目だ。もしかして君もアイラアイテスか」。「いや、あなたこそアイラアイテスではないですか。イアンさんはリタイア後もアイラに残るのですか?」。イアンさんは夕陽を眺めるきりで答えなかったが、私にはイアンさんの答えが、聞かなくても分かった気がした。あれから30年近く。今はコロナで行けないが、相変わらず私はアイラ通いを続けている。最初の時から、すでに50回近く訪れている。トータルしたら一年近くいることになるだろうか。これはもう、アイラアイテス以外のなにものでもないのだろうか。
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