2022-05-04
スコッチ【0212夜】ラフロイグ中興の祖、ベッシー・ウィリアムソン物語~その①
アイラのシングルモルトをアメリカに広めた立役者の一人といわれるのが、ベッシーことエリザベス・ウィリアムソンだ。彼女は1910年(11年という説もある)にグラスゴーで生まれ、1932年にグラスゴー大学の修士課程を優秀な成績で卒業している。教師になることが夢だったといい、スコットランドの歴史や地質学、薬学などを学んだ才媛で、1932年の夏に3ヵ月間だけの契約でアイラ島のラフロイグ蒸留所にやってきた。当時、大学出の女性が就職口を見つけることは難しく、家計を助けるためのアルバイトのつもりだったというが、すぐにアイラ島と、ウイスキー造りの魅力にとりつかれた。
当時ラフロイグ蒸留所を経営していたのは、創業家ジョンストン家の末裔であるイアン・ハンターである。アメリカに留学していた経験があり、アメリカ仕込みのマーケティング理論を持ち込み、それまでブレンド用原酒として出荷していたラフロイグを、自ら瓶詰めし、シングルモルトとして販売することを決意。そのために、隣のラガヴーリン蒸留所のオーナー、ピーター・マッキーと衝突し、訴訟まで起こしている。イアン・ハンターが戻るまで、ラガヴーリンがラフロイグの販売権を持っていたからだ。余談だがイアンがラフロイグを継いだ1908年に、ピーター・マッキーはラフロイグとそっくりなモルトミル蒸留所を、ラガヴーリンの敷地内に建てている。理由は訴訟で負けたイアン・ハンターと、ラフロイグを潰すためである。
そのイアン・ハンターの当時秘書を務めていたカーマイケル婦人の、産休の代わりに雇われたのがベッシーだった。しかし、すぐにベッシーの才能に気づいたイアンは、彼女を正式採用し、ウイスキー造りのノウハウ、さらにはマーケティング、特に禁酒法解禁直後のアメリカマーケットの開拓を彼女に任せた。その後、第2次大戦中に心臓病で倒れ、車椅子生活を余儀なくされたイアンは、亡くなる前に全権をベッシーに託し、そして1954年に亡くなると遺言で、ラフロイグの所有権も彼女に譲渡した。ベッシー・ウィリアムソンは、伝統的な男社会の中で、女性初の蒸留所マネージャー、そしてアイラ島初の女性オーナーとして、その後のラフロイグの舵取りを任せられたのだ。(つづく)
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