2022-04-30
スコッチ【0209夜】三度蘇った伝説の男、ジムさんの新たなる挑戦~その②
「ツチヤさーん、分かりますか。ピートカッティングが上手くできないと、島の男とは言えません。手を見てください。洗ってもピートの匂いが染みついている。この手でグラスに入ったウイスキーを飲むのです。一日の労働に感謝して」
ジムさんの言葉はいつも劇的で、物語性にあふれていた。ジムさんに初めて会ったのは90年代半ばのことだった。当時ジムさんはボウモアのブランドアンバサダーを務めていて、世界中を忙しく飛び回っていた。それまで何度かボウモアを訪れていたが、いつもすれ違い。『ブルータス』の取材でアイラ島に一週間ほど滞在している時に、スケジュールの合間を縫って、ジムさんが案内してくれた。まずはピートカッティングだといって、ボウモアのピートボグ(湿原)に連れて行かれ、そこで2時間ほどピート堀りをした。「腰が入ってないですよ。もっとリズミカルに。こうです」。ジムさんは、手取り足取り熱心にピートカッティングを教えてくれた。その後で連れて行かれたのが、ボウモア町のパブだった。グラスになみなみと注がれたボウモアを差し出され、「これは私のおごりです」。それからインダール湾に沈みゆく夕陽を眺めながら、外のテラスで長いこと話をした。
ジムさんの生まれは1949年。ボウモア町で生まれ、16歳からボウモア蒸留所で働きだした。最初は樽職人見習いからだった。当時、どこの蒸留所でも自前で樽の補修をやっていた。「一流の所長はウェアハウスマンから叩き上げないとダメだ」というのが、ジムさんの持論だった。その後マッシュマン、スチルマンとキャリアを積み、30代半ばでボウモア蒸留所のマネージャーに就任した。サントリーが一部の株式を取得した頃で、1993年にはモリソンボウモア社を買収し、完全子会社化した。ジムさんがブランドアンバサダーとして、世界中を飛び回るようになったのは、この頃からである。
ジムさんがボウモアを辞めてブルックラディの再建に乗り出したのは2000年のこと。ブルックラディは翌2001年5月に見事復活した。私の還暦の際(2014年)には、「60年物のボトルはないから」と言って、足して60年となるボトルをつくり、それを贈ってくれた。4回蒸留の「クワドルプルX4」を造った時には、名前のジェームズとボンド(保税倉庫)を引っかけ、007風の宣伝ポスターを作り、子供のようにはしゃいでいた。度数90%のウイスキーで、まさに殺しのライセンスという訳だ。
私はそんなジムさんのウイスキーも、そしてジムさんの話を聞くのも大好きだった。
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