2021-12-26
ジャパニーズ【0196夜】渋沢敬三とグラバー魚譜
再びNHKの大河ドラマの話で申し訳ないが、12月19日放送の『青天を衝け』の中で、青年となった渋沢敬三が登場していて、ちょっと胸が熱くなった。渋沢敬三は渋沢栄一の孫で、嫡男篤二が後継者にふさわしくないとして、栄一が廃嫡し、その上で渋沢コンツェルンの後継者として、頭を下げた人物である。
本人は幼少の頃より動植物が好きで、生物学者になるのが夢だったようだが、祖父・栄一の願いを聞き入れ東京帝国大学のたしか経済学部に入学したはずだ。やがて渋沢栄一が設立した第一銀行の頭取、そして戦時内閣の大蔵大臣などを歴任するが、その渋沢敬三が、長崎の倉場富三郎のもとを訪れた話は、以前(0096)も書いたことがある。銀行家、渋沢家の後継者となってからも、動植物、民俗学への想いは捨てがたく、自ら「アチック博物館」をつくり、日本の民俗学を育てたのは有名な話。その渋沢が、かねてより見たかったのが、倉場富三郎が生涯をかけて制作した通称『グラバー魚譜』だったのだ。
もちろん倉場富三郎はスコットランド商人、トーマス・グラバーと日本人女性との間に生まれた息子で、長崎生まれだが、父トーマスが三菱の顧問として東京に移り住むと同時に上京し、学習院に入学。同校を卒業するとアメリカのペンシルベニア大学の生物学科に入学した。実はトーマス・グラバーは、三菱の創業者・岩崎弥太郎の盟友。岩崎と渋沢栄一は維新直後に海運を巡り争ったが、その弥太郎の息子、岩崎久弥が当時ペンシルベニア大学に留学していて、そのこともあり倉場富三郎も、ペンシルベニア大留学を決めたのだ。
時代は下り、昭和になって渋沢家の嫡男、渋沢敬三が、かつての三菱の流れをくむ倉場富三郎を訪ねる。倉場富三郎は終戦直後の1945年8月26日に長崎の自宅で自ら命を絶ってしまうが、その時に、生涯かけて完成させた『グラバー魚譜』を、遺言で渋沢敬三に託したのだった。なぜ渋沢が倉場を訪ねたのか。どうして一度しか会っていない渋沢に大事な魚譜を託したのか…。ドラマではあるが、テレビに登場する若き日の渋沢敬三を感慨深く見入ってしまった。
倉場富三郎とグラバー魚譜。倉場富三郎の生涯とグラバー魚譜については、『0094 グラバー魚譜について‐その①』で詳しく紹介している。 一覧ページに戻る