2021-09-28
ジャパニーズ【0160夜】竹鶴ノートの英訳本が出版される~その②
第一次世界大戦が終結した直後の1919年11月、竹鶴はニューヨークから船でイギリスのリバプールに渡り、その年暮れにエジンバラに入っている。しかし、エジンバラではウイスキー造りが学べないと知り、年の瀬にグラスゴーに移り、グラスゴー大学と王立工科大学(現ストラスクライド大)に籍を置き、ウイスキー修業の第1歩を踏み出している。そのグラスゴーで生涯の伴侶となるリタ・カウン嬢に出会い、結婚したことは有名な話だが(リタは竹鶴の下宿先の娘)、それはおいておこう。
1919年4月、竹鶴はスペイサイドのエルギンで1週間だけロングモーンで働くことができ、初めてモルトウイスキーの製造に接する。その後6月にはボーネス蒸留所でグレーンウイスキーの研修も受けた。その実習の仕上げとして竹鶴が熱望したのが、ホワイトホースで知られるマッキー社での研修であった。当時同社はスペイサイドにクレイゲラキ、グレンエルギン、アイラ島にラガヴーリン、そしてグラスゴーにグレーン蒸留所とブレンダー室、本社を持っていたが、それらの蒸留所での実習許可はおりなかった。ところがマッキー社が1919年暮れから20年1月にかけ、キャンベルタウンのヘーゼルバーンを買収したことで、実習の道が開けたのだ。
マッキー社の総帥、ピーター・マッキーと、グラスゴー大学の恩師ウィルソン教授が個人的に懇意にしていたことが大きかったのだろう。念願だった実習許可が下りると竹鶴は1月8日にリタと結婚し、下旬にはキャンベルタウン目指して船で旅立った。ヘーゼルバーンで、竹鶴の世話をしてくれたのが、技師長として赴任してきたピーター・イネスである。ところで、今回監修者として協力し、まえがきを書いているアラン教授は、なんとこのピーター・イネスのお孫さんにあたり、さらに翻訳を担当したラス女史は、竹鶴とリタが暮らした、その同じアパートメントで生まれ育っているのだという。そんな不思議な縁に導かれて出版されたのが、今回の英訳本なのだ。
当時のヘーゼルバーンの様子をあしらった版画。『0013 竹鶴ノート100年とヘーゼルバーンの超レアボトル』では、竹鶴の研修時代に出されていたボトルについて紹介している。 一覧ページに戻る