2021-05-03
ジャパニーズ【0096夜】グラバー魚譜について~その③
太平洋戦争開戦前の昭和16年、1941年に一人の男が長崎の倉場富三郎のもとを訪れている。第一銀行頭取の渋沢敬三である。渋沢は現在NHKの大河ドラマで放送中の「青天を衝け」の主人公、渋沢栄一の孫で、渋沢家の当主でもあった。東大を出たあと、父にかわって渋沢家を継ぐ形となったが、若い頃から民俗学に傾倒していて、自らアチックミューゼアムをつくるなど、その後の日本の民俗学を物心両面で支えた。ちょうど日本の漁村を回って『日本魚名集覧』を執筆中のこともあり、倉場富三郎の評判と、その魚譜については聞いており、かねてより実際に見たいと思っていたのだという。
昭和16年5月中旬、九州で開かれた支店長会議の後、倉場邸を訪れた渋沢は4時間近くかけてグラバー魚譜の801点の魚をすべて、その眼で見たという。「日本4大魚譜」のひとつと言ったのは渋沢だと思われるが、深く感銘し、夕闇のせまる中、倉場邸を後にした。渋沢が富三郎に会ったのは、この時が最初で最後だったが、昭和20年8月に富三郎が亡くなると、遺言でグラバー魚譜は、三菱造船から渋沢のもとに届けられた。生前の富三郎が魚譜の寄贈先を渋沢敬三に託していたからだ。渋沢は「たった一度会っただけの自分に…」と驚いたというが、富三郎にとっては自分が生涯をかけた大切な魚譜を正しく理解し、それを後世に伝えてくれるのは、渋沢をおいて他にはいないと確信していたのだろう。
その「グラバー魚譜」が、渋沢から長崎大学に寄贈されたのが、昭和25年、1950年12月のことだという。当初、渋沢は東京大学なども考えたようだが、やはりグラバー魚譜は富三郎が愛した長崎にあるのが一番と考え、長崎大学に寄贈されることとなった。その経緯を書いた渋沢の文章の最後は、次の一文で終わっている。
「これで在天の倉場さんとしても、永年心血をそそがれた魚譜がもっとも因縁の深い長崎市に永久にとどまり、長崎県の水産学部で利用されることになったことを満足に思し召しくださることだろうと思い、自分としても何か重荷が下りたような気がするのである。」
801を数える魚のデータ自体は、現在一般公開している。ちなみに、魚の学名はグラバー自身が命名し、和名には地元長崎でよく使われていた呼び名を用いたそうだ。 下には「ウイスキー検定」の文字が…。詳細については、しばらく”泳がせて”連休明けに(?) 日程については、もしかすると”スライド”するかもしれないが…。 一覧ページに戻る