2021-05-01
ジャパニーズ【0095夜】グラバー魚譜について~その②
倉場富三郎とホーム・リンガー商会、長崎汽船漁業社については前回紹介したが、毎日長崎港に水揚げされる大量の魚を見ているうちに、富三郎の胸中に湧きおこったのが、日本の魚類について、西洋にも負けない立派な分類魚譜をつくるとことだった。そこで富三郎は長崎在住の4人の絵師を雇い、魚を正確に描かせることにした。もちろん魚譜で必要とされるのは通常の日本画とは違う。もともとペンシルベニア大学で生物学を学んだ富三郎は、魚譜の描き方にも習熟しており、最初は自ら手本を描き、4人の絵師を訓練したという。
最初にその魚譜に取りかかったのが1912年で、最後の一枚が描かれたのが1933年。実に21年かけて長崎に水揚げされる日本西部、南部地域の魚類の図譜が完成した。その枚数実に801枚。富三郎はそれを34巻の図譜として完成させたが、これは「日本4大魚譜」の1つといわれ、学問的にも非常に重要なもので、西洋の学会でも高く評価されている。しかし、富三郎の人生はこのころがピークで、次第に富三郎の生活には暗い影が忍びよる。それは日支事変、そして第二次世界大戦の足音である。当時、富三郎は同じ混血(ハーフ)である中野ワカと結婚し、父が建てた有名なグラバー邸に住んでいたが、魚譜の完成からしばらくした1937年に、愛するグラバー邸からの退去を命じられる。それは眼下にある三菱の長崎造船所で、軍の最高機密ともいえる、ある船の建造が始まっていたからだ。その船の名前は戦艦武蔵。大和と並ぶ我が国が誇る世界最大の軍艦で、その様子がグラバー邸からは一目瞭然だったからだ。
南山手9番地に移り住んだ富三郎に、さらに悲劇が訪れる。それは最愛の妻ワカが1943年(昭和18年)に亡くなったことである。享年67歳、2人の間に子供はいなかった。そして1945年8月9日、長崎に原爆が投下、15日に日本は終戦を迎える。戦中、ずっとスパイの嫌疑をかけられ当局の監視下におかれた富三郎だったが、連合軍の進駐が噂された8月26日、南山手の自宅でみずから命を絶ってしまった。逆に連合国から戦犯として裁かれることを潔しとしなかったからともいう。享年74歳であった。
801種の魚譜は一般入手不可能だが、200種を抜粋したものが2005年に発売された。今でもオークションに出回っているが、値段の方は…。 魚譜の1ページ。一種一種しっかり観察し、その特徴を捉えて描くのは大変な作業だっただろう。 ウイスキー文化研究所オリジナルボトル「グラバーコレクション」で使用しているラベルは、使用許可を得て200種の中から使用させてもらっているものだ。 一覧ページに戻る