2021-04-29
ジャパニーズ【0094夜】グラバー魚譜について~その①
日本とスコットランドの架け橋となり、明治維新、そしてその後の日本の近代化に大きく貢献したトーマス・グラバーについては、以前(0073)も紹介したが、そのグラバーと日本人女性との間に生まれたのが、トーマス・アルバート・グラバー、日本名・倉場富三郎である。生まれたのは1871年、明治3年の12月8日で、長崎の加伯利英和学校(現・鎮西学院)を出たのち、東京の学習院(旧制、現・学習院中高等学校)で学び、その後アメリカのオハイオ州ウェスリアン大学、さらにペンシルベニア大学で生物学を学んで日本に帰国。父が興したグラバー商会(1871年に倒産)の後継会社である長崎のホーム・リンガー商会に入社し、貿易業に従事した。
その倉場富三郎が、1907年に社内ベンチャーとして設立したのが「長崎汽船漁業社」で、当時ヨーロッパで盛んになりつつあったトロール漁法を日本に持ちこもうとした。トロール漁は大きな網を海中に入れ、それを汽船で引いて魚を獲るというもので、それまでの日本の沿岸漁業とは比べ物にならないくらいの大きな漁獲を得ることができたという。そのためのトロール船を発注したが、それが父の故郷アバディーンの造船会社で、アバディーンは当時トロール船の最大の造船基地だったという。この日本初のトロール船「深江丸」が長崎に到着したのが1908年で、そこから長崎は日本のトロール漁の中心地として、大いなる発展を遂げることになる。つまり父のトーマスが、日本に灯台や鉄道、炭鉱、造船業をもたらしたように、その息子である富三郎も、日本に初めて近代的な漁業をもたらし、その発展を支えたこととなる。
トロール漁は海の中層・底層を大きな網で引くことで大量の魚を捕獲でき、それを毎日のように長崎港に水揚げした。富三郎は毎日それを確認するため漁港に行っていたが、やがてそれらの魚を学問的に記録することの必要性を感じるようになる。(つづく)
倉場富三郎(トーマス・アルバート・グラバー)。 「グラバー魚譜 200選」に描かれている魚。ずっと眺めていると紙面から飛び出して来そうなほど立体的に描かれている。 一覧ページに戻る