2021-03-01
スコッチ【0073夜】ブルース家とグラバーボトル~その①
ジャーディン・マセソンとアビンジャラク蒸留所を紹介したついでに、幕末から明治維新にかけ活躍したトーマス・ブレイク・グラバーと、そのグラバーにあやかったウイスキーについても紹介したい。
長崎の「グラバー邸」と、トーマス・グラバーについて知らない人はいないと思うが、グラバーがスコットランド人だったということは、一般の日本人では知らない人も多いと思う。グラバーは1838年にアバディーンの北にあるフレイザーバラで生まれている。父はロンドン生まれの沿岸警備隊長で、母は地元フレイザーバラの地主の娘であった。トーマスが11歳の時に、父の転勤でアバディーンに移り、ドン川の畔にあった警備隊の官舎で育っている。当時、ドン川に架かる橋を渡ってすぐの所に上流階級の子弟を教育するギムナジウムがあり、そこを出たトーマスは、18歳で、上海に渡っている。
もちろん、同郷のよしみでジャーディン・マセソン商会への入社が決まったからで、その翌々年、1859年に開港直後の長崎に、ジャーディン・マセソンの代理人としてやってきた。後に独立してグラバー商会を興し、幕末から明治にかけて活躍したことは、多くのドラマでも描かれている(今放送中の大河ドラマにも登場するだろう)。
そのグラバーをラベルにあしらった、その名も「ザ・グラバー」というボトルが販売されたのが今から10年ほど前のこと。これは日本とイギリスの架け橋となったグラバーの功績を称えるためで、なんとスコッチのモルトウイスキーとジャパニーズウイスキーをブレンドした、フュージョン(融合)ウイスキー、つまりブレンデッドモルトだった。ブレンドおよびボトリングを手掛けたのは、ボトラーとして知られるアデルフィー社で、同社の社長であるアレックス・ブルース氏と、同社のティスティングパネルを務めるチャールズ・マクリーン氏がブレンドを行っている。もちろんマクリーン氏は著名なウイスキー評論家だ。しかし、なぜアデルフィー社が、このボトルを手掛けることになったのか。(0074につづく)
(上)トーマス・グラバー。親日家といわれたグラバー氏は、日本人女性と結婚し、1911年に没するまで日本にとどまった。(下)アバディーンにあるグラバーハウス。グラバー氏が三菱グループの顧問を務めていた縁もあってか、三菱グループの出資により再現された建物だ。 一覧ページに戻る