2021-02-01
アイリッシュ【0059夜】DCL帝国を終わらせたギネスビールの創始者
以前スコッチのDCL社について紹介したことがあるが、そのDCL帝国を買収したのが、アイルランドのギネスグループだった。今回はそのギネスグループの創始者、アーサー・ギネスについて。アーサー・ギネスは1725年、キルデア県(州)のセルブリッジという村で、リチャード・ギネスの息子として生まれている。当時父のリチャードはカッシェルの大主教、アーサー・プライスの執事を務めていて、主教のためにビールをつくっていたという。息子の名前はこのプライス師から付けられたもので、アーサー・プライスはアーサー・ギネスの、いわば教父(戸籍上の父)となっている。
プライス師が亡くなったのが1752年で、アーサーはそのため遺産として100ポンドを受け取った。この100ポンドを元手に、3年後の1755年にアーサーは生まれ故郷のセルブリッジに近いレイクスリップで、本格的にビール造りをスタートさせた。地図を見るとセルブリッジもレイクスリップも、ダブリンからそれほど遠く離れてはない。レイクスリップからダブリンまでの距離は約17キロほどで、当時ダブリンとシャノンを結ぶグランド運河の建設が、ちょうどスタートしたところであった。
ダブリン進出の機会をうかがっていたアーサーにチャンスが訪れたのは1759年で、ビール造りを始めて4年後のことであった。ダブリン市の西の門、セントジェームズゲートに長い間使われていなかった醸造所を見つけ、その建物と土地を年間1ポンドで賃借することに成功したのである。これが現在まで続くギネスのダブリン工場で、リース期間は9000年という、途方もないものであった。この契約書は現在も生きていて、ギネスのビジターセンターであるストアハウス1階の床に、誇らしげに埋めこまれている。当初4エーカー(約5000坪)だった敷地はその後買い増しされ、現在では18倍の68エーカーになっている。なんと東京ドーム6個分の広さである。
アーサー・ギネスが当初つくっていたビールは英国伝統のエールビール。しかし、1770年代から80年代にかけて、イギリスではポーターというビールが人気を博していた。ロンドンのコベントガーデンなどの市場で働く荷物運搬人(ポーター)が好んだビールで、アーサーはこのポーターに着目して、さらに独自の改良を加えてギネスの黒ビールをつくった。エールをやめ「ポーターのみで行く」と最終的に決断したのが1799年で、このアーサーの決断が、その後のギネス社の運命を決定づけることになった。
「ギネスといえばポーター、ポーターといえばギネス」といわれるほど、この黒ビールがギネスの代名詞となったからだ。まさにギネス社にとって、「歴史が動いた」瞬間でもあった。アーサー・ギネスはこの決断から4年後の1803年、77歳でこの世を去っている。
(上)アーサー・ギネスの肖像画。(下)年間1ポンド、有効期間9000年という当時のリース契約書。西暦10,759年までの契約ということになる。 一覧ページに戻る