2020-12-03
スコッチ【0029夜】ボニープリンス・チャーリーとカローデンの戦い
イギリス史をゆるがした内戦といえば、1746年のカローデンの戦いが、その筆頭だろう。イギリス国内(グレートブリテン島)で行われた、これが最後の内戦で、カローデン以降、北アイルランドは別として一度も内戦は起きていない。これはスコットランドの独立と、カトリックであるスチュアート王家の復活を願う、通称ジャコバイト党の反乱で、それを指揮したのが、スコットランド国王ジェームズ7世の孫である、ボニープリンス・チャーリーことチャールズ・スチュアートであった。ボニーは「可愛らしい」という、スコットランドの方言で、実際に紅顔の美少年だったという。
そのボニープリンスがヘブリディーズ諸島のエリスケイ島に上陸したのが1745年のこと。王子は亡命先のフランスで生まれ育っていて、これが初のスコットランド上陸であった。1707年の併合以来、不満がたまっていたハイランドのクラン氏族達を中心に、この王子に同調する者が続出し、エジンバラに入城するころには数千の群勢になっていたという。王子はその後、ロンドン北方200㎞のダービーの地まで進軍したが、態勢を立て直したイングランド正規軍によって、戦況は一転。翌1746年4月に、インバネスの近くのカローデンムーアで、最後の決戦が行われた。これが史上名高いカローデンの戦いで、勝敗はあっという間に決した。当時ヨーロッパ最強といわれたイングランド軍の前に、ハイランド氏族の寄せ集めにすぎなかったジャコバイトの軍は、完膚なきまでに叩き潰されてしまった。イングランド軍の総大将だったカンバーランド公爵による、ジャコバイトの残党狩りはし烈を極め、一族郎党、女・子供にいたるまで皆殺しにされたという。それ故、付いた仇名が“ブッチャー”だった。
その悲劇は多くの民謡でうたわれ、今日まで語り継がれている。このカローデンの戦いのあとに作られたのが、今でも名曲とうたわれる『スカイ島の舟唄(Skye Boat Song)』と『ロッホ―ローモンド(Loch Lomond)』である。その紹介は、また次回(0030)で。
カローデンムーアに建つモニュメントと、ジャコバイトの残党狩りと密造取締りのために築かれたイングランド軍の兵舎と監獄。モノクロであることが、どこか哀愁を感じさせる…。 一覧ページに戻る